あることないこと

ドーナツの絵日記

悲しみを楽しむ

お久しぶりです、ドーナツです。

一ヶ月くらい経ってしまった気がします。体調不良で色々と検査をしましたが原因はよく分からず。昔から体感に比べて検査結果は普通なことが多く、異常なくてありがたいけど、そのことにも慣れてきました。自分で判断する勘が冴えていく。どのお医者さんも言うことだけど、やっぱり早寝早起き、運動、規則的な食事にくわえて、ストレスと上手く付き合わないといけない。知っているけど難しい。

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絵日記を続けるのは自分にとって良いことだった。
しかし絵をまとめて振り返ってみると、後半に行くにつれて画面が詰まって息苦しそうである。これは絵というよりは文章を書くせいでもある。私がTwitterでよく見ている坂口恭平さんは書くことを日課にすることで薬のような効果を得ている、と本や呟きでおっしゃっていた。私は、書くとどんどん苦しくなる。言葉は自分の奥底から出てくるが、奥底にあるものは冷たくて暗い感触がある。それに触れていると疲れる。人に聞いてみると、意外と読んでも暗い印象は持たないらしい。それを聞いて少しホッとした。

数年前にオンラインカウンセリングを受けていたとき、文章でやり取りしていたのだけど、カウンセラーに伝えるための自分の文章があまりにも暗くて、それを読んで余計に落ち込んでしまったことがあった。私は人前では明るいほうが良いと思ってるから、暗さは歓迎しない。そういうものを持ってることを認めるのは嫌だった。

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少し前に、私がSNSでやっている占い遊びの元である方のタロットのセッションを受けてきた。カードには嘘がない、というのが私の受け止め方なので、出たカードを信頼している。それを一緒に読み解きながら自分を掘り下げていった。

潜在意識をあらわすところに「Sorrow=悲しみ」と書かれたカードが出た。そのことは日常的に意識しないけど、じっさいよく分かっていた。自分の奥底にある「悲しみ」は自覚できないくらい巨大な空気のようで、前向きな気持ちになっても底へ底へと自らを押し下げている。

仮に人から愛されても、誰かを愛しても、どれだけ豊かになっても空気は変わらずまとわりついている。ただ悲しみは悪いものではなく、そこに見つけるべき何かがあるということ。悲しく、寂しく、孤独で、弱く、頼りなく、心細い。そういう気持ちを、澄んだ甘みを薄い殻で包み込んだ砂糖菓子のように感じる。冷たいけど味わいはどこか甘くて静かだ。

自分がカードで引く助言はだいたい同じ。「楽しむ」こと「受け入れる」こと。悲しみには多くの彩りや幅があることを慣れているから知っているが、楽しむことについては一色しか知らない。趣味といえばゴルフしか知らない、みたいな。ふざけたり怠惰になったり羽目を外すことが楽しみではない。自分の悲しみや暗い冷たさを楽しむことも、楽しみなのかもしれない。それは嘲笑するということではなくて、こんなものを持っていたんだね、と知って新しい宝箱を開けるようなこと。

悲しみをどう受け入れて生きていくのか、その方針が決まらないと、悲しみだけが外の世界に反映されて、そのたびに対処を迫られ続けることになる。あなたの中にあるこれ、どうします?と聞かれたときに無視すると、空港で手荷物を受け取るときにみたいにまた回ってくる。向き合うのが結構大変でその度に鬱になったり、病気になったりするが、本気で向き合った結果死んだならそれでもいいのかもしれない。逃げて生きるよりは。

でも、下がり続けないように助けの手が必ずどこかから伸びてくるので、きっとこれに向き合う力がどこかにあるはず。助けようとはしない手に、いつも助けられるものだ。いつもそうなんだけど、大切なことは他者には本当にどうでもいいほど軽いことで、自分にとってだけ深刻で重みがある。そこに、この世との接地点がある。

この文章から何かを感じ取ってくれる人は、きっと会ったことがなくてもどこかで接点がある。あなたも楽しめるように。

 

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