あることないこと

ドーナツの絵日記

映画と…

新しい絵を描こう。

そう思って、机の上に向かったり向かわなかったりしながら一ヶ月半くらいは経過している。白い紙を張ったベニヤ版に新しい作品が描かれることはなく、ドローイングを描いて切り刻んだものがカードとして友人たちの元へ行った。

描く前はいつも怖い。仕事とは違う。そういうものだろうと思う。作ったものが気に入らないときのあの最悪な気分。思いのほか上手くいくときはいつも一瞬だけ。上手くいったときほど、自分で描いた感じがしないものだ。誰かが私を使ってくれたようです。私はあり余るほどバカなので、褒められば嬉しくなり、褒められたときの姿勢を維持しようとして一生懸命になり辛くなって、最後は全部やめたりする。

褒められるのはとても嬉しいものだ。言った本人はすっかり忘れていても、私を嫌っていても、何年もその言葉に支えられてたりする。ラインやDMを遡ったり、スクショを撮ったりする。たった一人にでも素敵だと思われていたら本当にありがたい。喜びを骨までしゃぶる。

自分のためだけに作らないといけないから怖い。自分が空っぽだと分かるのが怖い。しかし、じつは空っぽだと思って絶望した先に本当に見たいものがあるんだけど。つらすぎて引き返してしまうことが多いよ。それでも誰も咎めないし、逃げ出したまま死ぬこともできる。

それが一番怖いよ。

-

「偶然と想像」を観た。

観終わったあと、ドッと疲れた。濃い場面の連続で、休憩なしのスパーリングみたいだった。たくさん笑う人もいたり、劇場を出たあとも隅で泣いている人もいたり、興奮しながら面白い!と言っている人もいたり。知らない人たちとこうして一緒に映画を観られるのはとっても嬉しいことだ。この映画が、どんな記憶や感情を呼び起こしたのだろうと想像すると、少し豊かな気持ちになる。様々な経験をして今こうして生きている、それ自体が愛おしい。

私は、映画を観ている自分の反応を観ていた。
登場人物たちの振る舞いから、自分が恋愛関係に正しさを求めていることに気づいた。実際に渦中ではどれほどわけが分からなくなるか自分でも知っているのに。非常識だと言われるようなこと、それを「お前は間違っている」と物語が正していくような展開はよくあることで、それに慣れるとそれでスッキリさせたくなる。白黒を決めずにありのままを場に委ねていくことは、雑な判断で生きてきた私にとって強いストレスでもある。

強い肯定は強い否定を生む。あなたはただそうだから、と初めから思えたらいい。だけど難しい。嘘を付いているから本当の愛じゃないね、という単純な話でもない。観終わったあとにふと泣けてくる瞬間がある。

濱口監督の映画でいつも思うことだけど、まるで朗読劇みたいな淡々とした台詞回しに感じることがあるのに「今このひと本当のことを言ってるな」と思う瞬間があってそこでハッとする。正直な声は、明朗で爽やかな風が吹き抜けるみたいだ。そのときに、初めて私は人の話を聞くことができたのかもしれない、と感じる。

日常会話でああなることはあまりないけど、時々あんな時間が流れることがあり、あんな声を自分も出すことがある。

家に帰るバスに乗りながら、なんだかこれからどうしようかと考えた。
信号前、横並びになった車のなかで音楽に合わせて手を振ってる男性がいて、その人は今この瞬間しか見ることができないなと思った。

もっと人を好きになったり愛したりすること。それは今からでもできること。

 

f:id:dona_OHO_ak:20220120140452j:plain