あることないこと

ドーナツの絵日記

瞑想

土用が明け立秋も過ぎ。お盆。今日は八月八日。

仕事をしていると、いつも自分の限界を感じて悔しい気持ちになる。要望に応え、イメージ通りのものを作るので精一杯。驚きや感動は生まない。思った通りのものが来ると人は安心だけど、同時に退屈でもある。

余計な驚きなどいらず、きっちり作ればそれで充分、というケースもある。驚かせたいのは私の勝手でお客様には関係ない。しかしせっかくなら「わあ」という歓びがあったほうがいい。とはいえ、驚かせようと思って実際に驚かせることができたことはあまりない。意外性を楽しむ好奇心があり、想定外のことに心を開いていることが、大切だと思う。私は突然の変化や、想定外のことがちょっと怖い。

お客様と、私、両方喜ぶ道をいつも探そう。

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ここ数日、読んでいる本に書いてあった瞑想法を試し中。

瞑想、なかなか続かない。感覚が冴えすぎて少しの音が気になって気が散ったり、思考がうるさくて逆に疲れたりする。まあそれも訓練次第みたい。その先の景色もたしかにあって、深い癒やしも感じられる。

今朝、寝不足気味で不調のまま瞑想してみたなかで、とても細やかな自分の波長のようなものを捉えることができた。

気が落ち着かず集中状態に入れないなと感じていたとき、体のなかで「上手くいかせなきゃ」という感覚が自然に発動していた。理想形と照らし合わせて「上手くいってない」と感じたときに、要因になる悪いところをサーチしているらしい。SF映画で例えると、敵の要塞に潜入した主人公たちを探す目の大きい自動ロボットのような、あの嫌な感じのやつ。(説明になってるかな?)とくに自分で意図していなくとも、日々勝手にこの機能が働いていることに気がついた。体の傷を治すような自然な機能とはちょっと違う。考え方の癖から生まれて、染み付いてしまったたんなる癖のようだった。

面白いのが、この癖自体が状態を悪くさせていることだった。通常、誰かに自分の悪いところ探られるのはかなり嫌な気分になる。そして、それがたとえ自分のなかで勝手に起きていることでもストレスは感じている。

自分の悪いところを探そう、というのは私の長年の考え癖。それは知っているつもりだったけど、体にまでこうして染み付いているのを実感して、思考の怖さも知った。思考が体も変えてしまうし、自分の生きる現実も変え、きっと生き方も変えてしまう。

「良くしよう、良くなろう」と思うこと自体は素晴らしいと思う。だけど、なんのためにそうするのかという目的が抜け落ちたまま、その渇望だけが残っている感じだった。「上手くいってない」と思うのは、なにと比較しているからなのか。信じ込んでいる理想形は本当にそれが「上手くいっている」ということなのか。

生きているなかで、自分は悪い人間だといつしか思うようになった。罪を償わなくてはいけないと幼い時分から思っていた。それはまだしつこく残っている。だいぶ薄まってはきたけど。それって、かなり過去のことなのだ。下手したら生まれる前の記憶である可能性もある。とっくに終わっている。

それに、そもそも償いとはただ申し訳無さそうに生きることではなく、命を全うすることだ。

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これをどんなふうに生かそうか、これから決めていこう。