あることないこと

ドーナツの絵日記

金魚すくい

先日、近所の駅前で大規模なお祭りが行われていた。
私は買いもの帰りで、いつもはまばらに通行人が通るだけの交差点に老若男女が押し寄せていて驚いた。浴衣を着た小学生くらいの女の子がたくさんいて、彼女たちの表情がとてもキラキラしていた。コロナでそういった行事が軒並み中止されて、今年からようやく各地で復活している。お祭りってやっぱり嬉しいものだ。

駅の出口からすぐの角を曲がったところに熱帯魚や小鳥を売るお店があり、そこで開かれていた金魚すくいに長蛇の列ができていた。子どもたちがしゃがみこんで、夢中で金魚を捕まえようとしていた。

それを見たときは何も思わなかったが、今日考えごとをしていたときにその場面が脳裏をよぎった。

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自分が様々な情報に誘導されて揺さぶられたり、思考を乗っ取られているような感じを最近はとくに覚える。昔からたくさんの情報を浴びて振り回されていたはずだけど、影響を受けただけなのにその感情や思考を自分のものだと思っていた。他者の感情を引き受けてしまっていることに気づかなかったり、情報に仕込まれた意図に引っ張られているだけなのに。

この世界に、引っ掛かりやすいフックがあちこちに仕掛けられていて、何も考えずに生きていると簡単それに引っ掛かってもって行かれてしまう。

それが、金魚すくいとリンクした。
水面に近いところでぼんやり泳いでいると掬われてしまう。
だから、もっと深く潜らないと。そう思った。

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雑音の中からクリアな音だけを見つける技術を身につけたいと思った。洪水のような情報の中から何を見つけるかが肝なのに、ただそこを離れてリフレッシュしただけでは私には物足りない感じがした。

だから、圧倒されて苦しいけど今は情報の中に居残ってる。

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ここ数年で、自分がどうしたらいいのかますます分からなくなった。
一時凌ぎのライフハックばかりが増える。

こっちの方向で間違いない、と分かればどれほど楽になるだろうか。しかしたとえその確信が生まれても数日しか持たない。私は簡単に言葉にできたり、理解できることへの疑念がすごく強い。「こうだ」と言い切れる時点で、玉葱の薄皮が剥けたくらいだからあまり重要と思えない。見えたものも壊しては作り直して、ずっと何も建たない。

いつもはここで「自分ってこういうところがダメなんだ」で終わってしまうけど、勝手に区切ってしまわずにしばし観察を続けるのが必要だ。そうしないと、ずっと頭打ちのまま。可能性も閉ざされたまま。自分が決めつけてしまえば変化することもできない。違和感や、疑念や、不安や、不信感を川に流すみたいにとりあえず泳がせておく。それをつまみあげて捕えさえしなければそんなに悪さはしない気がする。

生きていく大変さって色々あるけれど、私は世界がとても柔らかく不安定なことが不安で、そうして自分も不安定であることを受け入れるのは、今一番大変なことだ。

瞑想

土用が明け立秋も過ぎ。お盆。今日は八月八日。

仕事をしていると、いつも自分の限界を感じて悔しい気持ちになる。要望に応え、イメージ通りのものを作るので精一杯。驚きや感動は生まない。思った通りのものが来ると人は安心だけど、同時に退屈でもある。

余計な驚きなどいらず、きっちり作ればそれで充分、というケースもある。驚かせたいのは私の勝手でお客様には関係ない。しかしせっかくなら「わあ」という歓びがあったほうがいい。とはいえ、驚かせようと思って実際に驚かせることができたことはあまりない。意外性を楽しむ好奇心があり、想定外のことに心を開いていることが、大切だと思う。私は突然の変化や、想定外のことがちょっと怖い。

お客様と、私、両方喜ぶ道をいつも探そう。

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ここ数日、読んでいる本に書いてあった瞑想法を試し中。

瞑想、なかなか続かない。感覚が冴えすぎて少しの音が気になって気が散ったり、思考がうるさくて逆に疲れたりする。まあそれも訓練次第みたい。その先の景色もたしかにあって、深い癒やしも感じられる。

今朝、寝不足気味で不調のまま瞑想してみたなかで、とても細やかな自分の波長のようなものを捉えることができた。

気が落ち着かず集中状態に入れないなと感じていたとき、体のなかで「上手くいかせなきゃ」という感覚が自然に発動していた。理想形と照らし合わせて「上手くいってない」と感じたときに、要因になる悪いところをサーチしているらしい。SF映画で例えると、敵の要塞に潜入した主人公たちを探す目の大きい自動ロボットのような、あの嫌な感じのやつ。(説明になってるかな?)とくに自分で意図していなくとも、日々勝手にこの機能が働いていることに気がついた。体の傷を治すような自然な機能とはちょっと違う。考え方の癖から生まれて、染み付いてしまったたんなる癖のようだった。

面白いのが、この癖自体が状態を悪くさせていることだった。通常、誰かに自分の悪いところ探られるのはかなり嫌な気分になる。そして、それがたとえ自分のなかで勝手に起きていることでもストレスは感じている。

自分の悪いところを探そう、というのは私の長年の考え癖。それは知っているつもりだったけど、体にまでこうして染み付いているのを実感して、思考の怖さも知った。思考が体も変えてしまうし、自分の生きる現実も変え、きっと生き方も変えてしまう。

「良くしよう、良くなろう」と思うこと自体は素晴らしいと思う。だけど、なんのためにそうするのかという目的が抜け落ちたまま、その渇望だけが残っている感じだった。「上手くいってない」と思うのは、なにと比較しているからなのか。信じ込んでいる理想形は本当にそれが「上手くいっている」ということなのか。

生きているなかで、自分は悪い人間だといつしか思うようになった。罪を償わなくてはいけないと幼い時分から思っていた。それはまだしつこく残っている。だいぶ薄まってはきたけど。それって、かなり過去のことなのだ。下手したら生まれる前の記憶である可能性もある。とっくに終わっている。

それに、そもそも償いとはただ申し訳無さそうに生きることではなく、命を全うすることだ。

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これをどんなふうに生かそうか、これから決めていこう。

 

 

不調の時、どうする。

先日「元気だ」と書いた後あたりから不調になってきました。これはよくあることで、どうやらブログなどで近況を書きたくなる時というのはその波のピークに相当するらしい。

これまでも幾度とあったことであり、まるで外に向けて書いたせいでペースが崩れてしまったように思っていたのですが、そうではなく、もっと俯瞰したところから感じれば私は波の中にいただけであった。

私の不調のサインは分かりやすい。

周りのことでイライラし始める。些細なことに批判的になり、文句が増える。胃腸が荒れる。肌が痒くなる。いつもより少しだけ体が重くなる。知らないうちに心の中で自分の現状や性格への否定を始めている。感謝の気持ちがなくなる。

今回はここで気が付いた。
「あ、疲れてる、不調だ」と。

ここで気がつかないまま進むと、

イライラが膨れ上がり常に怒るようになる。朝から晩まで自分への否定が止まらなくなる。食欲が減退し、ベッド起き上がるのが辛くなる。最後は落ち込んでしまい、動けなくなる。なんとなく死ぬ想像をし始める。

こんな軌道を描いていきます。

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不調だと気が付いたときに出来ることは、とにかくよく休むことだけ。とくに睡眠は大切。いつも「このくらいやって当たり前」と思ってることを半分以下に減らす。いいじゃん、いいじゃん、それでも全然いいじゃん。と言ってくれる人物を自分の内側に召喚する。

自分を大嫌いになる気持ちが歯止めの効かないところまで到達する前に、そのエンジンの回転数を落とすのが目的です。イライラする程度の初期段階だったら、自分自身を緩めるような優しい呼びかけはまだ効果があります。

不快な気持ちを誤魔化して、何かに興じたり食べたり飲んだりするのも、一時的にはアリですがあまり根本的ではない。コロコロと気分転換はさせてあげつつ「それで、今日はどうしたのよ?」と、聞いてあげる時間もなかなか大切です。

あれもイヤ、これもイヤ、これがムカつく、悲しい、つらい、本当にウンザリだ。

ここに、一切の茶々入れません。そう言うお前はどうなんだとか。自分にも非があるとか。相手の気持ちを考えろとかは、この時は一切いらないです。話を最後まで聞いてあげる最高な友達に、心の中に来てもらいます。なぜそうするかというと、出したことに素直に共感してもらえると自分が納得して、本当に重要なこと以外の些末なことは落ちていくからです。

私は散歩しながらこれをやって、三十分くらい歩いてると、歩き出す前に気にしていたことがわりとどうでもよくなります。かなり溜まってる人は、極太のペンでノートに殴り書きするのもオススメです。燃やすとスッキリします。体感重視の人には効果アリ。

書いてる途中に、あまりにも小さなことで怒ってるから笑えてしまうこともあります。嘲笑ではなくて、なんかちょっと必死になってしまってる自分への愛らしいような、バカだなあ、みたいな気持ちです。

日頃から我慢を重ねまくって、何十年と生きてきた場合はこれだけは済まないところがあります。私も気が触れたように泣いたり怒ったりして出してきて、ようやく今ここ、という感じです。自分や他者を傷つけないやり方で、感情をたくさん出してください。自分が怪我しちゃったら、ごめんねと言ってください。残念ながら、あなたが自分をどれほど無価値で死に値すると思っていても、あなたの命は問答無用で貴重で、そこにあるだけで宝物です。自分でそのように思えなくても全然大丈夫。

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これらは私のやり方ですが、この回復途上は人により千差万別で、それが大変すばらしく面白いところです。

底の底まで落ちた時、素晴らしい出会いをすることもあります。そこで救われたもので目を覚ますこともあります。新しい価値や、知識に出会うこともあります。その精査や分別は、後からでも出来ることです。

不調は、それまで高まっていた波がゆっくりと穏やかにバランスしていく過程なので無駄も無意味もありません。逆に言うとそこにだけ意味があるわけでもない。感情に飲み込まれたときの体感を知っていることが重要です。

ただ、これはやっぱりちょっと大変で過激なことなので、波を緩やかにしたり、波の役割を理解してそれを利用するような、内面サーフィンの技に慣れていけば自分はけっこう楽になりました。

結局は自己探求なのですが、それを面白いとどこかで思える人ならきっと色んな技を身につけていけるはずだと思います。

自分を知る。

特技や不得意、生来の好み、動きやすいやり方、落ち着く場所。そういうことは、不調の時の自分がよく分かっています。不快で嫌な状態になってしまった自分を毛嫌いしたりせず、モヤモヤをちょっと感じてみて、表現する時間を与えてみて、暴れ出しそうな自分と熱烈な時間を過ごされてみてはいかがでしょう。

 

なんてことを、書いてみた。

 

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Twitterを休んで一週間ほど経ちました。

日々、体にエネルギーが余ることに気が付きます。SNSの情報で刺激を得て、そこから思考することでエネルギーを回していた。そのことで神経がかなりやられていたみたい。誰かの感情を積極的に食べていたような気さえする。

今はその余ったエネルギーがすべて運動に回っています。毎日、夕方に一時間ほどウォーキングしたり、ストレッチやトレーニングをする。散歩は前から好きだったのですが、なぜか散歩していると超ハイになって無敵になるので、もう日課にしてやろうと思ってそうなりました。体のことに取り組むのは何でも楽しい。

暑い気候も相まったのか、遊びたい、外に出たい気持ちが強くなりました。誰かと朝まで話したい。朝まで踊ってもいい。そして、その場で死んでいい。生き物として生命を出し切りたい。みたいな欲求が溢れています。すごく元気です。

ついこの前、横浜にライブに行きました。
開演前にDJタイムがあり、それがあまりにも楽しかった。良いDJをしてくださった。クラブ通いとかしたことがないけど、こんなに楽しいなら死ぬまで踊っていたいと思いました。実際は二階席のすごい奥だったので全然踊れてませんが。伝統的に言っても、やっぱり夏のお祭りは体にも心にも理に適ってる。本当に音楽と踊りが大好きな人が集まる場所にもっと行きたいなと思います。

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日々の出来事を通して思うのは、本当に好きなことや本気なことについては完璧にお膳立てがなされます。逆に言えば、そうでもないのにちょっとした欲が出て踏み入れた場所からは早めに出されるということでもある。

昔は、こういうことを「運」と呼んでいた。でもそれは、我々にどうにもできない運ではなく、自分の正直さの問題である。何が私たちに応えてくれているのか、神なのか、宇宙の何かなのか、それはさっぱり分かりませんが。本気なのに全然上手いこといかないよ、というのは、実は別のことからの逃避場所にしているだけだったり、違うと知っているのに掴んだ手を離したくないだけかもしれない。

上手くいかないことにも理由があって、上手くいかないということが自分で理解できるのは、上手くいっているということでもある。

 

 

🌈 

嘘つきはよく喋る

このブログもそろそろ閉めようかな、なんて思い始めている。

梅雨入りで、もうそんな時節かと思う。一年ってどうしてこうあっという間なのか。その一年の間で、肉体的に最も活動的でありセンチメンタルな季節が春から夏だと思う。夏に向かって機運が高まり、そして冬に向かって閉じていく。解放された体に、素のままの記憶が刻まれる。そんな感じ。裸で海へ、ひと夏のロマンス、朝まで踊り騒ぐ、酔って思い出せない、バテてただ眠る、どれも素晴らしい。そう思い巡らすとと、夏のうちに何ができるか、とちょっと焦ってしまう。

ただ最近の真夏は暑すぎて外出どころではない。夕方から夜にかけて私はようやく羽を伸ばせる。あと何回夏が体験できるんだろう。

くだらないことで思い悩んでいないで、さっさと外に出なさい。

と心にいる誰かが言っている。

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いつしかここで書いたイマジナリーフレンド「サナ」とも最近は話していない。

小さい頃から妄想癖の激しい子だったから架空の存在で遊んだことは数知れずあるが、名前も存在もそのうち飽きて忘れてしまう。サナはまだ忘れていないし、ときどきチョンとせっついてくる。LINEでしか話せないけど。

彼女が実在しているかどうか、私は頭が変かどうか、考えても仕方がない。その物差しは、空気の読めない野次みたいで、今は必要がない。

このことを誰かにちゃんと話したい気もするが、たぶん理解してくれそうな人はかなり少ない。理解、とは否定しないで聞いてくれるという以上のことを言っているから、そんな人はいないと思ったほうがいいし、そのことに全くガッカリもしてない。まず私自身が理解してない。実在してることにしすぎると完全に嘘になるし、否定するのも違和感がある。とにかく微妙なもの。存在と非存在のあわいを漂ってるものなんだと感じる。

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どんな相手でも、自分をさらけ出すところがないと本当の会話はできない。なめらかな会話の中に紛れる「私はこう思う」は、あくまでも表面的なもの。その言葉自体が本当に言いたいことを表してるわけじゃない。そのもっと奥に欲求や望みがあって、それはたぶん声色にしか表れない。だからいつだって言葉には限界がある。

なんでも正直に言えばいいわけでもないけど、具合の良い方法は人それぞれだ。口からすべてを出して流れを作りつつ、その動きを俯瞰で見ていく人もいるだろう。動きながら考えられるタイプだ。

私だって自分が何が言いたいのか、何を欲しているかなんて、正直分かってない。

ただ、どんなことを思い付いても、何を言い出そうとも、今の自分が出せるだけの正直な表現を受け入れてあげること。おかしなこと言っている気がしても、否定も肯定もせず「おぉ、それでそれで?」と聞いてくれる人が自分の中にいればいいはずだ。嘘を付くよりずっといいのだ。他者がどう思うだろう、そんな不安よりずっと大事なこと。

今はとくに「絶対にこうだ」と言い切ることが難しい世の中になった。
だから「気がする」「思う」といった末尾にしてのらりくらりと地雷を踏まないようにして、保険をかける。

きっと、誰でも、自分の中にひとつくらいは「これだけは絶対だ」と言い切りたい意見や主張というものがあるんじゃないか。そこがしっかりしていれさえすればいい。信条や信念と呼ばれる類のものかもしれない。それって、浅瀬で踏ん張っている思い込みなどとは次元が違うものだ。

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言葉の扱いが巧みであることは、あくまでそれだけの能力しか表してない。

良いことを言えるだけの技術があるけど、その人自身はその影に隠れている。

言葉はユーモアや遊びの道具で、その行き交いの中で、パッと輝いたり、誰かを救ったり、笑わせたりできる。言葉が素敵だ、面白い、と思うなら、その人の奥にもっと思い馳せてみたらいい。言葉だけで、勝手に失望したり、期待したり、しないこと。

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円滑にコミュニケーションがとれるように口だけ達者になり、随分前から言葉と自分が乖離していて気持ち悪い。人を宥めたり、気まずくならないためだけに発達した言葉遣いを今は残念に思う。私は私の言葉を持っていない。口だけの嘘つきに成り下がった。とくに、話し言葉において。

そんな心情から生まれた文章だった。

 

 

寂しい者の夢

階層I

夢の中で、抽象度の高い文章を読んでいた。その言葉の羅列から、それが何を意味してるのか分かった。直接書かれていない奥に、柔らかで確かな真意がある。それを読みながら、脳が書き変わる感じ。だけど何を読んでどう感じたのか思い出せない。分かるのは、物の見方を完全に変える(変わる)ということだけ。
それをどうやって?

(※抽象度の高い文章はプリミ恥部さんの書くものに似ていた。)
SF『安心』2ND SEASON 4. - YouTube

階層II

木造で緑に囲まれた学校のようなところ。色んな人がいて、卒業式の日みたいな感じ。同年代くらいで、男も女もたくさんいる。その中に好きな相手も混ざっていて、その人のことが気になる。大勢とやり取りしながらもその相手に強く焦がれる気持ちがあった。私は少し派手で可愛らしい服を着てた気がする。ガヤガヤと集まった後、私だけ所用でどこかに抜けて、そして帰ってきたらもう教室には誰一人いなかった。窓の外を見下ろしてみんなを探した。緑に光が差した景色、帰宅しようとしてるのか楽しそうに話す人たちがいたのを覚えてる。卒業したみんなは、もうすっかり解散したのだ。散り散りになって各々の進む道へと旅立っていった。それが寂しくて、寂しくて仕方なかった。私だけがまだそこで悲しんでいた。激流のように楽しかった思い出が蘇って、その場に取り残された。

階層Ⅲ

ふと気がつくと、家族で車に乗っていた。みんな今の年齢で。あれ、いつから乗っていたっけ?私は寝ていた?どこを目指してるの?と私は困惑気味。すごいスピードでスレスレの道を行く父。私は怖い!と叫んだ。途中で、金髪のメッシュが入った女の子がバイクに乗っていて、私は彼女を轢かないでと願った。途中、森深い団地のようなところに来て「ここは散歩しがいがあるんだよ」と私が言った。私はそこに来たことがあって、それは何年か前。その昔は、まだその時間がどれほど貴重かということに何も気が付いてなかった。その頃はまだ色んな人が傍にいて話せたのに。なんて美しかったんだろう、と思った。その記憶の中に戻りたかった。

階層Ⅳ

次は畳部屋の中。二階か三階。古い昭和の木造アパートみたいなところだ。部屋の中で、若い男たちや子供が、一緒にふざけて楽しく遊んでる。快活で現代っ子ぽくない男たち。私はある青年と話していた。眼鏡をかけて色白、少しおくれ毛が長く優しそうな人。全く知らない人だ。世界を一人で旅していそうな雰囲気、経験があって物事をよく理解している人という感じ。

私は、これまでの夢での寂しい気持ちを引きずったままだった。「どうして好きな人と最後は別れなければいけないのか、好きな人が死ぬなんてこんな酷い世界はない」そう思って、その彼に「だったらもう、私が先に死にたい」とこぼした。そうしたら、首をガッと掴まれて大きく開いた窓の外に上半身を出された。怖くはなかった。

彼は真剣で優しい目をしながら「そんなこと言っていてはだめだ。」と言った。

私に、大人になるよう伝えていたと思う。変わらなければいけない、これまでと全く違う考え方を持たなくてはいけない。そのために少しずつでも軌道を変えなければいけない。そんなイメージが残る夢だった。私は、あぁそっか、とすぐ納得した。

 

 

夢は全て同じテーマの中で別の階層にある。

ヒントは盛りだくさんだけどやり方までは教えてくれない。成り行きはお前次第。

 

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生命

私が抱いてるなんとなくの目標の一つが「すべての人へ敬意を抱き愛する」ということだけど、言葉にしてしまうとあまりに冗談みたいで、浮ついていて、範囲が広すぎる。そして難易度が高い。

これは、すべての人を好きになることではないし、仲良くなることでもないし、受け入れることでもない。その人がまず生きている、ということへの絶対的な敬意。生命に対する感謝のようなもの。それはその相手がどんなアイデンティティーを持っているかを遥かに飛び越えていくし、それよりもっと手前にあること。自分を認めてもらいたい気持ちの奥には「自分」というアイデンティティーがあり、その姿を受け入れられたい欲望があるが、本来はただ存在してることを認識してもらうだけで充分だったりする。

自分が自分をどう思っているか、必ず一度は考えるしそれを考えることはすごく大切だけど、ただ生きていることの凄さに比べたら、それはちっぽけな屁理屈に思えることもある。私はこのような人間だから人から愛されないとか社会に必要とされないとか、どうでもいいことで、人の存在そのものがそんな小さな枠を初めから飛び越えている。

そういうことも踏まえて、最初の目標に戻る。そうすると、まず私が自分自身に対して深い敬意と愛を抱かないと、他者にそれを抱くのも無理な話だ。命がどんなものかを実感するのに、自分を使わない手はない。何ができるとか、できないとか、そんなことは関係なく、生命を日々感じてみないとそのことはわからない。

「でもそうは言っても社会ではさ、一般的にはさ、、」
そう言いたくなるときは、すっかり見失っているだろう。社会が定めた物差しはとてもとても小さくて、そこに収まっていると生命の広がりは決して感じられない。凄い、という言葉は他との比較をすることが前提で使われることが多いが、本当はただそれ自体が凄いだけだ。褒め言葉ではなくて、ただ本当にそうだから。一人一人がそういう生命を持っている。持っているというか、それ自体だ。

役割も自意識も立場も吹けば飛ぶような表面的なもので、そこで様々な遊びや挑戦をしていてもいいけれど、もっと奥にあり基盤でもある生命の貴重さに立ち返ってもいいんじゃないか。そこから見ていかないと、やりたいことは何なのかという問いにも究極的には答えられないと思う。

あなたはそこに生きていて、あなた自身がもう凄さで成り立っているのに、何をいつまでも外の世界で探しものをしてブラブラしてるんだ。それをいい加減もうやめてもいい人も沢山いるんじゃないかと。

生きていることを理解し、生命から自分を理解するために、目や鼻や口や耳があり、手足があったり、もしくはそれらが限られていたりもする。感じることが出来るように作られたこの体が、いつでもあなたに寄り添っている。そうして、今がわかるように。今に立ち帰れるようになっている。

命を大切にするというのは、死なないということでもないし(死にたいのは本気で命に向き合いたいという願いも含まれている)、それよりもまず自分という生命を知ることだと思う。それには、やっぱり感じていくしかないし、そして感じながら考えて動いていくしかない。

ややこしくない。生命は頭で想像できるようもずっと賢いものだから。