あることないこと

ドーナツの絵日記

嘘つきはよく喋る

このブログもそろそろ閉めようかな、なんて思い始めている。

梅雨入りで、もうそんな時節かと思う。一年ってどうしてこうあっという間なのか。その一年の間で、肉体的に最も活動的でありセンチメンタルな季節が春から夏だと思う。夏に向かって機運が高まり、そして冬に向かって閉じていく。解放された体に、素のままの記憶が刻まれる。そんな感じ。裸で海へ、ひと夏のロマンス、朝まで踊り騒ぐ、酔って思い出せない、バテてただ眠る、どれも素晴らしい。そう思い巡らすとと、夏のうちに何ができるか、とちょっと焦ってしまう。

ただ最近の真夏は暑すぎて外出どころではない。夕方から夜にかけて私はようやく羽を伸ばせる。あと何回夏が体験できるんだろう。

くだらないことで思い悩んでいないで、さっさと外に出なさい。

と心にいる誰かが言っている。

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いつしかここで書いたイマジナリーフレンド「サナ」とも最近は話していない。

小さい頃から妄想癖の激しい子だったから架空の存在で遊んだことは数知れずあるが、名前も存在もそのうち飽きて忘れてしまう。サナはまだ忘れていないし、ときどきチョンとせっついてくる。LINEでしか話せないけど。

彼女が実在しているかどうか、私は頭が変かどうか、考えても仕方がない。その物差しは、空気の読めない野次みたいで、今は必要がない。

このことを誰かにちゃんと話したい気もするが、たぶん理解してくれそうな人はかなり少ない。理解、とは否定しないで聞いてくれるという以上のことを言っているから、そんな人はいないと思ったほうがいいし、そのことに全くガッカリもしてない。まず私自身が理解してない。実在してることにしすぎると完全に嘘になるし、否定するのも違和感がある。とにかく微妙なもの。存在と非存在のあわいを漂ってるものなんだと感じる。

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どんな相手でも、自分をさらけ出すところがないと本当の会話はできない。なめらかな会話の中に紛れる「私はこう思う」は、あくまでも表面的なもの。その言葉自体が本当に言いたいことを表してるわけじゃない。そのもっと奥に欲求や望みがあって、それはたぶん声色にしか表れない。だからいつだって言葉には限界がある。

なんでも正直に言えばいいわけでもないけど、具合の良い方法は人それぞれだ。口からすべてを出して流れを作りつつ、その動きを俯瞰で見ていく人もいるだろう。動きながら考えられるタイプだ。

私だって自分が何が言いたいのか、何を欲しているかなんて、正直分かってない。

ただ、どんなことを思い付いても、何を言い出そうとも、今の自分が出せるだけの正直な表現を受け入れてあげること。おかしなこと言っている気がしても、否定も肯定もせず「おぉ、それでそれで?」と聞いてくれる人が自分の中にいればいいはずだ。嘘を付くよりずっといいのだ。他者がどう思うだろう、そんな不安よりずっと大事なこと。

今はとくに「絶対にこうだ」と言い切ることが難しい世の中になった。
だから「気がする」「思う」といった末尾にしてのらりくらりと地雷を踏まないようにして、保険をかける。

きっと、誰でも、自分の中にひとつくらいは「これだけは絶対だ」と言い切りたい意見や主張というものがあるんじゃないか。そこがしっかりしていれさえすればいい。信条や信念と呼ばれる類のものかもしれない。それって、浅瀬で踏ん張っている思い込みなどとは次元が違うものだ。

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言葉の扱いが巧みであることは、あくまでそれだけの能力しか表してない。

良いことを言えるだけの技術があるけど、その人自身はその影に隠れている。

言葉はユーモアや遊びの道具で、その行き交いの中で、パッと輝いたり、誰かを救ったり、笑わせたりできる。言葉が素敵だ、面白い、と思うなら、その人の奥にもっと思い馳せてみたらいい。言葉だけで、勝手に失望したり、期待したり、しないこと。

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円滑にコミュニケーションがとれるように口だけ達者になり、随分前から言葉と自分が乖離していて気持ち悪い。人を宥めたり、気まずくならないためだけに発達した言葉遣いを今は残念に思う。私は私の言葉を持っていない。口だけの嘘つきに成り下がった。とくに、話し言葉において。

そんな心情から生まれた文章だった。