あることないこと

ドーナツの絵日記

生命

私が抱いてるなんとなくの目標の一つが「すべての人へ敬意を抱き愛する」ということだけど、言葉にしてしまうとあまりに冗談みたいで、浮ついていて、範囲が広すぎる。そして難易度が高い。

これは、すべての人を好きになることではないし、仲良くなることでもないし、受け入れることでもない。その人がまず生きている、ということへの絶対的な敬意。生命に対する感謝のようなもの。それはその相手がどんなアイデンティティーを持っているかを遥かに飛び越えていくし、それよりもっと手前にあること。自分を認めてもらいたい気持ちの奥には「自分」というアイデンティティーがあり、その姿を受け入れられたい欲望があるが、本来はただ存在してることを認識してもらうだけで充分だったりする。

自分が自分をどう思っているか、必ず一度は考えるしそれを考えることはすごく大切だけど、ただ生きていることの凄さに比べたら、それはちっぽけな屁理屈に思えることもある。私はこのような人間だから人から愛されないとか社会に必要とされないとか、どうでもいいことで、人の存在そのものがそんな小さな枠を初めから飛び越えている。

そういうことも踏まえて、最初の目標に戻る。そうすると、まず私が自分自身に対して深い敬意と愛を抱かないと、他者にそれを抱くのも無理な話だ。命がどんなものかを実感するのに、自分を使わない手はない。何ができるとか、できないとか、そんなことは関係なく、生命を日々感じてみないとそのことはわからない。

「でもそうは言っても社会ではさ、一般的にはさ、、」
そう言いたくなるときは、すっかり見失っているだろう。社会が定めた物差しはとてもとても小さくて、そこに収まっていると生命の広がりは決して感じられない。凄い、という言葉は他との比較をすることが前提で使われることが多いが、本当はただそれ自体が凄いだけだ。褒め言葉ではなくて、ただ本当にそうだから。一人一人がそういう生命を持っている。持っているというか、それ自体だ。

役割も自意識も立場も吹けば飛ぶような表面的なもので、そこで様々な遊びや挑戦をしていてもいいけれど、もっと奥にあり基盤でもある生命の貴重さに立ち返ってもいいんじゃないか。そこから見ていかないと、やりたいことは何なのかという問いにも究極的には答えられないと思う。

あなたはそこに生きていて、あなた自身がもう凄さで成り立っているのに、何をいつまでも外の世界で探しものをしてブラブラしてるんだ。それをいい加減もうやめてもいい人も沢山いるんじゃないかと。

生きていることを理解し、生命から自分を理解するために、目や鼻や口や耳があり、手足があったり、もしくはそれらが限られていたりもする。感じることが出来るように作られたこの体が、いつでもあなたに寄り添っている。そうして、今がわかるように。今に立ち帰れるようになっている。

命を大切にするというのは、死なないということでもないし(死にたいのは本気で命に向き合いたいという願いも含まれている)、それよりもまず自分という生命を知ることだと思う。それには、やっぱり感じていくしかないし、そして感じながら考えて動いていくしかない。

ややこしくない。生命は頭で想像できるようもずっと賢いものだから。