あることないこと

ドーナツの絵日記

蓄え

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ふと写真に写ったときや、誰かと喋っている声を聞いて、自分がとてもふてぶてしくて驚く。私が一番偉いのだと思っているだろう。

あるときは、自分が傷付かないように、または相手を傷つけないように、なんとなく避ける話題があったり、言いたいことをしまっていることに気付く。

昔からいつも不足感があって、埋められそうなものがあるとみっともなく求めたりするから、それを相手に悟られたくないので距離を取る。
どこか乾いていて温かさがない。

不遜な態度は、それがそのまま自分自身への接し方のように思う。

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-02-

自分はなにを感じて生きていたいのかな。
なにを信じたいのかな、と考える。

ないものが分かった後、そのスペースを何で満たしたいか考える。

自分はこうだからこうやって生きていくしかない、という物語が慰めになり、何かを決心するときの後押しにもなり、そして逃げることへの言い訳にもなる。

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事実を見ようとせずに何かの主人公になることで自分を慰めている人を見ると、そのまま墓まで行くのだろうかと考える。ドラマのボリュームを大きくすることで弱さを掻き消している。私もよくそうなることがある。

私たちは可哀想でもなく、健気でもなく、勇敢でもなく、筒を通る風みたいに現実が自分の中を通り過ぎて行く。

幼い頃はドラマチックでロマンチックだったから、自分や世界に多くのものを期待していた。社会に出た後は生きることの地味さにがっかりして、いつも不機嫌だった。CGで作った嘘くさいものでもいいから奇跡が証明されてほしいなと思っていた。

今でもなにかを切望する心がある。
鼻を利かせて素敵なことがありそうな場所や物をたくさん追いかけて、それは豊かな肥やしになった。望んだり、欲したりして、実際に探し歩いた体験がなにかを呼んでくることもある。


「これが現実だ」と思うものがどんなものであれ、ほしいと思ったものを探し歩くことはやめないほうがいいんじゃないか。素敵なものを求めて探し歩く道中が、その歩いた先にあるものよりも自分を豊かにした。

それぞれが求める素敵なものは、愛なのか自由なのか安心なのかわからないけど。

 

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-03-

元気になると自撮りをする。
顔が良く写る角度はどこだろうと探す。ブスに写るポイントで撮ってみたりして、良く撮れたものと比較して、実際の自分はどのへんだろうと探ってみる。他人は自分を真正面から見るより横や斜めから見ることのほうが多いから、写真はあくまでも写真。

だけど、ときどき人が現実の印象にほど近く立体的に写る写真があって、その中で生きて動いているように見えるときがある。逆に、写っている人の生が消えて絵画のようにきれいに作品の一部に馴染んでいる写真もある。どちらも不思議なものだ。

自分で撮るのは、こんな自分がいたよ、という記録になる。いくら自撮りをしても自分に出会うことはない。

いつか誰かに自分のこともよく撮ってもらいたい。きっとまだ自分と出会ってない人がたくさんいるだろう。

 

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