あることないこと

ドーナツの絵日記

祈りと死

こんにちは、ドーナツです。

散歩したら蚊さんにたくさん刺されてしまった。アロマの虫除けスプレーを吹きかけたが効果なし。歩いていたら緑道で野良猫さんに声を掛けられ、そのままついて行ったらベンチにたどり着き「ここに座って撫でなさい」とのこと。迫りくる蚊さん、激しい痒みとの勝負だった。結果、十六箇所ほど刺された。

元納棺師の方と、プロテスタントの牧師さんの対談ユーチューブを見た。
死や葬儀についての話が多く、濃い内容だったけれど面白かった。話を聞いていて、私は祈ることについて考えていた。

今のような状況では「祈ってる場合か」の気持ちになる。祈ることは何もしない、無駄な時間に思えるときもある。だけどそもそも祈りは神に救いを求めたり、何もせずともどうにかなるように願う時間ではなくて、困難な状況の中でも光を感じる方向を信じたり、または苦しんでいる人が早く癒やされるように願うことだったのを、その牧師さんを見て思い出した。

現実を見ないためではなく、自分を見つめて戻りたい場所に調整するために目を瞑る。自己都合の神頼みではなく、自分を含めてより多くの人の幸せや癒やしを願うために手を合わせている。そんなふうに勝手に考えたりした。

結婚式もキリスト教式が選べるのだから、葬儀もキリスト教式を選べるようになったら良いのにな。私はもともと素朴な教会が好きで、焼香よりも献花を好む。キリスト教式の葬儀に一度参加した経験があり、そのスタイルはとても美しかった。対談いわく、プロテスタントの葬儀は亡くなった個人というより残された遺族のために行う面があって、そこには感謝や慰めの要素やケアの観点が含まれてるという。

死に関することは、土地の風習や、民族性や、宗教のあり方が大きく関係しているし、センシティブな面もある。だけどもう少し死ぬことについて、それとただ向き合う時間もほしいし、普通に話したりしてもいい気がする。

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