あることないこと

ドーナツの絵日記

しあわせを見つめる

こんにちは、ドーナツです。

台風が近づいてる。雨が降ったり止んだりする中で洗濯物を干してしまった。厚手の靴下は臭ってしまったかもしれない。朝と〜っても疲れていて、何かがすごく溜まってる。入浴やストレッチで抜くのだけど、抜き切らない。山に登ったり、海で泳いだりしたい。体をよく動かす、これは意識しないと本当に忘れてしまう。

意識して続けていくとやらないと気が済まなくなり、そのうち習慣になる。ずっと言ってるけど、早起き、読書、運動(広い意味)は習慣にしたい。そう意識しているだけでも。

自分の不調、良くない部分、世の中の嫌な出来事、そういうことによく気が向いている。なので良かったことを探す練習をしてみる。

日常では、風が気持ちいい、あれが美味しかった、仕事のやり取りがスムーズだった、掃除して片付いた、とかそんなことが気持ちのいいことだ。当たり前だけど当たり前じゃないこと。家族が元気であるとか。私も完璧ではなくても元気だったり。まだ手を付けてないけど読みたい本が家に置いてあること、そんなことも嬉しい。(積み過ぎだけど)好きな人が存在しているとか、そんなことも幸せなことだ。まず元気でいてくれると嬉しいし、自分との間に関係性があって会話ができる状態ならもっと嬉しいし。一緒にいる時間が多いとさらに嬉しいだろう。

そこまで考えたらそもそも自分の持ってる価値観が改めて何だったろう、と思い返したくなる。何に幸せを感じているのか。

たぶん自分にとっては「今日は風が気持ちいい」とか「あれを食べたいから材料買ってきて作ろう」とかそんなことを味わえたり行動できること、その余裕や時間が持てることが幸せの大きな基盤だと思う。

ああ、今日はこんな日だな、今の自分はこんな感じだな、そういうことが分かる隙間があってそこから初めて新しいインスピレーションが生まれてくる。何かを成そうとか、手にしたいというのは、そこが充たされたあとの話になってくる。体験したことはないが忙しくて寝る暇もないけど充実してるとかも、それが楽しいことであればそう思えるのかもしれない。たぶん、私はそうではない。幸せに気がつける力が幸せだと思う。

細かい幸せに気がつける力というのは、同時に細かい不快感や違和感にも気がついてしまう。心地いいメロディよりも大体警告アラートのほうが大きい音だ。うるさいから消したいし、不快だから遠ざけたい。ただ、不快なものを消そう無くそうとする努力はどうしてもそれにずっと目を向けて取り組むのでその間は嫌だし疲れる。では、無視するのがいいかというとそれはそれで一周回ってまた目の前に来ることが多い。

嫌な感情が動くときは特に、かなり意識をして影を観察する。嫌なものは嫌!を、本当そうだよねと思いつつ、ではなぜ嫌なのか、それってどんな感じなのかよく見つめる。その嫌なもの自体を「これのここがマジで最悪」と見つめるというよりかは、自分自身が感じてることや思ってることをよく見つめる。「どうして?」と問い続ける。なんでそんなことするかというと、大体そこに抜け道があるから。

思考を捻じ曲げて嫌なものをこの世界から消したり無視したりするのではなく「一体何なんだこれ」と思うそのままを見つめられると、そこに自分はどうしたらいいかという鍵がある。自分自身が、そこにいたりもするし。

幸せを見つけるにはやっぱり嫌なものも見つめる、という今日の着地になってしまった。

f:id:dona_OHO_ak:20210808233940j:plain