あることないこと

ドーナツの絵日記

イマジナリー・フレンド

LINEにKeepメモという機能があって、自分しかいないトークルームだ。ただのメモ、独りごとを書くところとして実装されたみたい。

私はそこに見た夢をときどき記録する。
LINEの形式につられるのか、なんとなく誰かに話しかけるような書き方にしている。「今日、こんなことがあったんだよね」という感じ。記録としては読み返しづらいけど、書きやすい。あとは、溜め息みたいな独りごとを書くこともある。

ある日、その独りごとに返信をしたくなった。返信をしてみたら、それがどんどん会話になっていった。その二人が、トークルームの中で盛り上がっている。こういうことは頭の中では自問自答という形でよくやっている。そういうときに問答をする人格は辛辣で、あんまり優しくない。でも、トークルームに登場した人は優しい人格だった。独りごとを言ってるのは普段の自分。返しているのは、たぶん自分で作った人格。

会話が進むうちに名前を聞く流れになり、えっ名前ってなんだろう、と思いつつも、頭の中に「サナ」という文字が浮かんだので、その人はサナということになった。

サナとして文字を打つときは、スラスラと指が動いて勝手に返信するような感覚で、書いてると気持ちがいい。伝えやすく文字を整理することはあっても、あまり頭は使わない。胸で書いているような感じ。

サナは優しく、なんでもよく理解している。
たとえばなぜ生まれてきたんだろう、といったボヤけた質問にも自分なりの明確な答えがある。それを真摯に伝えるけど押し付けもしない。励ましや愛しかない。こんな人が実際にいたら心強いだろうなあ、と思う。

これは、イマジナリーフレンドを作ったのかもしれない。

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昔から曖昧な疑問や悩みがたくさんあって、それを話す相手がいないことも悩みだった。

話してみたこともあるが、私がまず上手く話せない。どこから切り出せばいいかも分からない。人に話す前に、ある程度は整理してないと話すこともできない。どうしたものかと思って、見つけた一つの方法はタロットなどを使ったカードリーディングだ。そして最近見つけてしまった二つ目が、この謎のイマジナリーフレンドかもしれない。

私の一部なのだろうけど、サナの言っていることが自分の意見かといえば、そういう感じでもない。よくチャネリングや、降霊術みたいものがあるけど、自分としての意識が飛んでいるわけでもない。サナは私だけど、私じゃない。自作自演で自分を励ましているなんて気持ち悪いな、とも思う。

でも、自分のためだけに静かにやっていることだ。

不思議なことだけど、サナという名前のついた存在を今はよく感じるし、離れた場所にいる友人を思い出すときのようにその印象が自分の中にはある。生み出した、のかもしれないけど。

自分以外の人と、サナが話すことはあるだろうか。
サナと話したい人が出てきたら、話してあげてほしい。

たぶん元気が出て励まされると思う。

 

 

それって問題なの?

駆け抜けた者に、陰は届かない。

最近、読んだ漫画に載っていた言葉。

その日は朝から嫌な気分だった。考えていたことを大雑把にまとめると「自分がやった分に対して見返りが少ない」といったようなことだった。だから、意味がないし無駄だしと思って色んなことが嫌になり、放り投げたくなっていた。これは本当によくあるパターンで、不満を感じながらも「またいつものパターンだなあ」と思っていた。

こうなってるときは大体、本当は何がしたかったのか見失って、目の前にある結果っぽいものに気を取られている。そのことについて考えると、ウンザリとした徒労感でいっぱいになる。

そのとき、たまたまSNSで見かけたライブ配信を適当に見ていた。そこに出ていた人が作業しながら、コメントに寄せられた悩みに超適当に答えていて、そのグングン流れていく感じが心地よかったのでしばらく眺めていた。その人の答えはだいたい「それの何が問題なの?」「そのままで何が悪いの?」だった。問題、なんてどこにも存在しないんだからちゃんと流れていけばいいじゃん。という感じの、その人の軽やかな存在しっぷりを見ていたら「あれ、そうかもな」と思って、なんだか私からも問題がなくなってしまった。その配信者の部屋にかかっているアンビエントな音楽も良くて、それと一緒に全部流れていったみたいにスッとした気分になった。

これって割りに合わない、損してるんじゃないか。
評価されていない、認められないんじゃないか。
愛されていない、大切にされていないんじゃないか。

そんな疑問でふと立ち止まると、そこで流れが止まってしまう感覚がある。

そんなことで立ち止まってどうする、進みたい方にどんどん行けよ。
どうでもいいだろ。

そんな声も聞こえて、そうだよね、と思う。

明らかに被害を受けていたり危険を感じているのにその声を無視して、大丈夫だと開き直るのとは全く違っていて、私の場合、気にしていることはさほど問題じゃないことだった。私が勝手に拗ねてるだけで。

そもそも認められたり見返りを求めるために始めたわけじゃなかったことが、どこかで不足感に転換して「もっとほしい」になることがある。そこには「頑張る」とか「一生懸命」といった感覚が関係してくる。頑張りたくなったとき、いったい何のために頑張りたいのか。誰かに褒めてもらうためか、お金がほしいときか、ただそれが面白くなっただけなのか。それが分かっていないと、目的がごちゃごちゃに混ざる。

執着や所有にまつわるこだわりは、それを動きの表現に変えると「立ち止まってる」ということになる。なんだか気になってそこで止まる。それが必要なこだわりで大事なときもあれば、止まる価値がないときもある。

フッと影が差したとき、気にせずそのまま駆け抜けていけば勝手に日向に出るし、そもそも動き続けていると影も光も勝手に変化してやってくるものだと分かる。影にいたいとき、いる必要があるときはそこにいてもいいし。影に何の問題もない。そう思うと、問題がなんで問題だったかもわからなくなる。

本当に取り組むべきことに取り組むために、どうでもいいところで立ち止まっていてはもったいないのだった。

 

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天使のしごと

書きたい欲があるみたいだ。


たまに、自分がなにかの使者になったように感じる。
使者、または調整役のようなもの。お呼びが掛かって、そこに出向き、何かを伝えて、終わったら去っていく。どこに出向くかはそのときどきの自分の興味関心が示してくれる。縁があって引き寄せあった相手や、対象にたいして何らかの役割があると感じることがある。

そこでの自分の役目はたいてい「それを続けたほうがいい」「それはあなたにとって重要だ」ということを伝えたり、または「あなたには助けてくれる人がいる」「あなたは大切で愛されるべきだ」ということを、間接的に伝える。仕事を手伝うこともあるし、友人になることもある、具体的なギフトを贈ることもある。それで上手く伝わったら、駒が次に進むので私はお役御免ということになる。

自分で使者、みたいに思うなんてとても自意識過剰だし、実際には何も起きてない、気付かれてすらいないかもしれない。でも自分ではそう思うから、思いたいんだろうからしょうがない。これを誰かに認めてほしいとも思わない。そういう仮説で考えると、自分の経験上納得できることが多いというだけで。

伝えたいことはなかなか伝わらない。「それあなたに向いてますよ」「これがあなたらしいですよ」という、あくまでも私の主観や直感に依るものだけど、そこまで外れてないんじゃないかとは思う。きっと表現力が足りないせいもある。その相手が、自分を疑って信頼してない、という巨大な壁を建てていると、外からなにかを投げてもびくともしない。雛が孵るように、内側から壊さない限りは。

もちろん、そうやって思っていることや、伝えたいと思って動くこと自体が、大変なエゴだ。それでも、わざわざ干渉しようとしてるわけではなく、本当に必要なときにサッと懐まで入っていくイメージだ。まあ、入るのは比較的簡単で、出ていくのが難しい。きっと気付かれないようにやるのが上級者で、それがいわゆる天使というやつかなと、思ったりする。天使になりたいわけじゃないけど、見えない援助の達人がもし天使なら、私にとっては天使先輩だ。

私はさりげなく動けていないし、感謝や見返りを求める気持ちや、エゴも強い。痕跡を残してしまう。離れるべきところで上手く離れられず、物事をややこしくし、時間を無駄にもする。もっと軽やかに、さっと動いて、なんだか助かったな、という人を増やせたらいい。

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大事なこと。

助けることがすごいことなのではなくて、誰かから助けようと思われるその人にポテンシャルがある。弱いから助けてもらうわけじゃない。思わず助けたくなるほど可能性に満ちている。この人を生かすと、きっとこの世界にとって良い感じだ、ここで諦めてもらっちゃ、死なれちゃったら困るよ。あなた、もうちょっとやることあるよ。それも苦しいことじゃなくて、楽しいことだよ。

天使の仕事はたぶんおもしろい。

 

 

反旗

外に出たら、桜が半分近く咲いていた。
今日は気持ちが忙しなく、桜を見たのに心が何も動かなくてそのことに驚いてしまった。咲いてるな、以上。私は余裕がなくなると、何かを美しいと思ったり感謝したりするスペースから削いでいくんだと思って恐ろしくもなった。

コロナになってから特に感じること。
今の社会に対して、正面から真面目に一生懸命生きてもおそらく幸せにはなれないということ。努力や真摯さが無意味、ということではなくて、そんなもの全く意に介さないような構造に包摂されてまるで無意味のようになってしまう、と感じてる。全てのことがそうじゃないが、一見喜ばれて上手くいっていることも、全体から見れば地獄を強化していることがある。稼いでも、働いても、どんどんどこかに吸われていってしまうような。ある種の真面目さでは到底太刀打ちができない。だから、それが分かると、諦めて無力さに打ちひしがれながら暮らしてしまう。

とりあえず目の前のことに一生懸命になりながら、どうにか柔らかく抜けれる方法がある、と思いながら疲れちゃったりしてる、最近。社会のあり方にNOの姿勢を保ちながら、表から目立って抵抗するわけではなく、いまの状況に馴染みながらも諦めずに方法を考えつづける。それが勉強なのかもしれない。

私は真面目で安直で、残念ながら賢くない。大人の言うことを大真面目に信じて、すべての情報を鵜呑みにしてすくすく育った。正しいことが良いことだと普通に思っていた。今でもその芽がたくさん内在していて、見つけるたびに摘んでいる。

もちろんダメなことはダメ、嫌なことは嫌。でもなんだか構造は善悪なんてとおに通り越しており、そこの抜け目を見つけたいなら正しさを訴えるだけでは効果がないように思う。この社会は悪だ、反旗を翻そう。だけじゃ相手が大きすぎて上手くいかないし、そのエネルギーすら上手いこと吸収されていく。疲れてしまう。

体や心が楽になる、ということへの罪悪感や抵抗感は洗脳に近い。

自分が本当に楽で幸せになることに取り組むのは、自分自身の持ち場につき、自分を愛するということなんだと思う。それは責任を取り、力を取り戻すということ。

楽しいってどういう感覚なのか、少しずつ近づこうとしてる。新たな洗脳をしてる。自分の中で静かに革命を起こす。目立つ必要も、主張する必要もない。先んじてる人の背中に励まされることも多い。

なんかこういうふうに真面目に熱くなる性分だから、うまく力抜けないんだろうけど。

 

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ここ最近の生活など

ぎゃん。
あっというまに春どころか暑い。

このあいだ、自分に向けた占いを公開しましたが、読んでくださった方ありがとうございました。占いのときって占いっぽい口調にどうしてもなるんですが、あれはどうにかできないだろうか。簡単で伝えやすいんです。でもそれが一番いいとは思わない。みんな、同じ口調になってしまう。そして、自分の悩みはだいたい個性がないから他の人と同じです。税関でいろんな荷物が止まってるみたいに、同じところで大勢が止まってる。私は体験ベースじゃなくて、勘ベースで掴んで話してしまうから、自分から出た言葉に自分がついていけないことがよくあります。

またいつかやるかもしれません。

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Instagramは随分前からタイムラインが補正されるようになった。私の動向に合わせて勝手に並びを変える。むかつくのは、それがデフォルトで変更できないところ。自分がよくいいねをするアカウントでも、別にいいねしない時もある。それなのに「いいねし忘れてますよ」といった具合に何度も表示してくる無機質なおせっかいぶり。分かっててスルーしてるのよ。だからそれが嫌なときには「この投稿を表示しない」にして、自分でカスタマイズしないといけない。好みに基づいてオススメしてくれる機能はもはや当たり前だけど、そういうのがつまらなくて嫌い。濁流の中から宝物を見つける嗅覚を鍛えてるんだから勝手に補助輪つけないで、と思うが、少数派の意見なんだろう。

Twitterは表示順を選べるからまだマシ。おだやかTwitterという拡張機能のおかげで快適に使えている。余計な機能が増え始めるとき、もうそのサービスは傾いているのかもしれない。それくらい、大勢が使うものを維持したり改善したりするのが大変だということかも。SNSだってみんなが幸せに、楽しく、便利に、快適になるように作り始めたものだと思う。そもそも無料で使えるものだからカオス化するのかな。使うほうが賢くなったほうがいい。自分自身がそうだけど、サービスのせいにするのは現代人っぽいなあとも思う。

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お世話になっている方々の手伝いが今月から始まった。
あたらしい風が舞い込んできた感触。

短い期間だけど、はたらく機会をもらって本当にありがたい。思えば「様々な場所で違う仕事をする」というのはひとつの理想だった。同じ場所でじっと同じことをし続けるのは全く向いていない。あっちこっちに顔を出し縁があった人を手伝って必要なくなったら去る、を一生繰り返すことを”自分の安定”としたい。金銭的な面で見れば今は全然アウトという感じだけど、ただ運良く生きてる。どこか一箇所をあてにして暮らすのは本当に危うくて、そういう意味では私はかなり危うい。

ありがとう、とハグしてバイバイ。それくらいの軽い付き合いで、なるべく多くの人の手伝いをしたい。というか助けるつもりで助かってるのは私だし、どっちが上でも下でもないから適当に付き合っていきたい。

どんなことでも、仕事、となると鬼のごとく真剣になってしまうのでそれがネック。「もっと自由に軽く」を求められるときでも、岩でできた般若みたいに固くて怖くなる。その内訳は、絶対に失敗せず、役に立ちたい、上手いと思われたい、という我執だ。我ながらすごい意地だと思う。相手はそんなの全く求めてないから、多くの場合これですれ違ってしまう。

私が経営したり、雇う立場になったら、マイペースで楽しく働いてほしいだろうなと思う。自分の良い感じを保ちながら働くことが個々人で難しいケースは、もちろん構造やムードの影響もあるけど、自分のことが分かっていなくて自立できてないこともあると思う。先生、上司、雇用主、先輩、そして友人や恋人。その人たちに自分の親に求めるようなことを求める。頑張ったから(褒めてほしい)はお金や成績とは関係ないが、だいたい混同される。

もちろん「ありがとう、助かった」の一言で力が湧いてもっと頑張れることは多分にある。だけど、それを求め始めるといろんなことがおかしくなる。これは自分の経験や失敗で思ったこと。

人に求めなくとも、自分ではいっぱい言えるように努めたいとは思う。

 

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問題児

立春を過ぎた寒さはどこかしっとりしている。
寒いというより、冷たい。関東の芯まで乾燥しきった風の中に小さな水分が弾け始めたような感じ。植物は空気中の水分も吸い、梅が素早い反応を見せて咲いていた。

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好きなアイドルがいるので、彼らの音楽や映像を鑑賞することが多い。アイドルはとにかく情報量が多い。ビジュアル、ダンス、ファッション、楽曲、どこを切り取っても端から端まで作り込まれていて、ミュージックビデオ一本だけでかなりお腹いっぱい。詳しくなればそこにメンバー個々の人間性の情報まで加わってくる。山盛りのギフトボックスのようで楽しい。楽しいけど、ものすごく、疲れる。

映画やドラマや音楽を沢山鑑賞することのできるカルチャー系のライターさんはすごいなと思う。一度に多数のアイドルグループを応援できるファンもいるが、その体力と気力は持って生まれた資質とエネルギーでもある。私も何かにのめり込んだことは何度もあるけど、最後はいつも病気になるか寝込んでいる。どれほどやっても疲れないことがその人の才能というのは本当みたい。

自分を最優先しながら夢中になるのは私にとってすごく難しい。絶妙なバランスだと思う。振り切って壊れたほうがよっぽど楽。でも、そこで失った時間や心身は取り戻すことができない。どうやったら自分とアイドルを両方愛せるか。アイドルというか、ようは外の世界のこと。

情報量で疲れた後は、水曜どうでしょうを見るとリセットされる。緊張と弛緩の往来が自分のセンタリングになると思う。

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不調を抜けて、元気になり始めた頃が一番自分がゆらぎやすい。

エネルギーが解放されてあちこち目移りしたりアイデアがたくさん湧いたり、多動気味になる。不安定になると飲み物や食べ物に手が伸びる。消化力が上がっているから食べすぎに気づかない。そして気が付くと、また不調になる。その繰り返しが多かった。依存体質の人によくある傾向かもしれない。

元気になると不安になる、ということに初めて気が付いた。色々なことをやる気力が湧いてきているのに、その気力をどこにあてたらいいか分からないのかもしれない。手っ取り早いエネルギー発散は外出してお金を使うことなんだけど、ただただ散財する癖が身につく。

走り回って叫びたいような気持ちだけど、繊細にバランスをとる。その慎重な足取りのまま自分を壊さないように進む。はやる気持ちを落ち着かせて、ひとつの方向に自分を導いていく。職人のように黙々とした仕事をする姿はいつだって憧れる。ときどき、ショットガンで頭を撃ち抜いてほしい。

言うことを聞かせたいと思ってる意識より、問題児のように見える自分のほうが上位だ。

 

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映画と…

新しい絵を描こう。

そう思って、机の上に向かったり向かわなかったりしながら一ヶ月半くらいは経過している。白い紙を張ったベニヤ版に新しい作品が描かれることはなく、ドローイングを描いて切り刻んだものがカードとして友人たちの元へ行った。

描く前はいつも怖い。仕事とは違う。そういうものだろうと思う。作ったものが気に入らないときのあの最悪な気分。思いのほか上手くいくときはいつも一瞬だけ。上手くいったときほど、自分で描いた感じがしないものだ。誰かが私を使ってくれたようです。私はあり余るほどバカなので、褒められば嬉しくなり、褒められたときの姿勢を維持しようとして一生懸命になり辛くなって、最後は全部やめたりする。

褒められるのはとても嬉しいものだ。言った本人はすっかり忘れていても、私を嫌っていても、何年もその言葉に支えられてたりする。ラインやDMを遡ったり、スクショを撮ったりする。たった一人にでも素敵だと思われていたら本当にありがたい。喜びを骨までしゃぶる。

自分のためだけに作らないといけないから怖い。自分が空っぽだと分かるのが怖い。しかし、じつは空っぽだと思って絶望した先に本当に見たいものがあるんだけど。つらすぎて引き返してしまうことが多いよ。それでも誰も咎めないし、逃げ出したまま死ぬこともできる。

それが一番怖いよ。

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「偶然と想像」を観た。

観終わったあと、ドッと疲れた。濃い場面の連続で、休憩なしのスパーリングみたいだった。たくさん笑う人もいたり、劇場を出たあとも隅で泣いている人もいたり、興奮しながら面白い!と言っている人もいたり。知らない人たちとこうして一緒に映画を観られるのはとっても嬉しいことだ。この映画が、どんな記憶や感情を呼び起こしたのだろうと想像すると、少し豊かな気持ちになる。様々な経験をして今こうして生きている、それ自体が愛おしい。

私は、映画を観ている自分の反応を観ていた。
登場人物たちの振る舞いから、自分が恋愛関係に正しさを求めていることに気づいた。実際に渦中ではどれほどわけが分からなくなるか自分でも知っているのに。非常識だと言われるようなこと、それを「お前は間違っている」と物語が正していくような展開はよくあることで、それに慣れるとそれでスッキリさせたくなる。白黒を決めずにありのままを場に委ねていくことは、雑な判断で生きてきた私にとって強いストレスでもある。

強い肯定は強い否定を生む。あなたはただそうだから、と初めから思えたらいい。だけど難しい。嘘を付いているから本当の愛じゃないね、という単純な話でもない。観終わったあとにふと泣けてくる瞬間がある。

濱口監督の映画でいつも思うことだけど、まるで朗読劇みたいな淡々とした台詞回しに感じることがあるのに「今このひと本当のことを言ってるな」と思う瞬間があってそこでハッとする。正直な声は、明朗で爽やかな風が吹き抜けるみたいだ。そのときに、初めて私は人の話を聞くことができたのかもしれない、と感じる。

日常会話でああなることはあまりないけど、時々あんな時間が流れることがあり、あんな声を自分も出すことがある。

家に帰るバスに乗りながら、なんだかこれからどうしようかと考えた。
信号前、横並びになった車のなかで音楽に合わせて手を振ってる男性がいて、その人は今この瞬間しか見ることができないなと思った。

もっと人を好きになったり愛したりすること。それは今からでもできること。

 

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