あることないこと

ドーナツの絵日記

それって問題なの?

駆け抜けた者に、陰は届かない。

最近、読んだ漫画に載っていた言葉。

その日は朝から嫌な気分だった。考えていたことを大雑把にまとめると「自分がやった分に対して見返りが少ない」といったようなことだった。だから、意味がないし無駄だしと思って色んなことが嫌になり、放り投げたくなっていた。これは本当によくあるパターンで、不満を感じながらも「またいつものパターンだなあ」と思っていた。

こうなってるときは大体、本当は何がしたかったのか見失って、目の前にある結果っぽいものに気を取られている。そのことについて考えると、ウンザリとした徒労感でいっぱいになる。

そのとき、たまたまSNSで見かけたライブ配信を適当に見ていた。そこに出ていた人が作業しながら、コメントに寄せられた悩みに超適当に答えていて、そのグングン流れていく感じが心地よかったのでしばらく眺めていた。その人の答えはだいたい「それの何が問題なの?」「そのままで何が悪いの?」だった。問題、なんてどこにも存在しないんだからちゃんと流れていけばいいじゃん。という感じの、その人の軽やかな存在しっぷりを見ていたら「あれ、そうかもな」と思って、なんだか私からも問題がなくなってしまった。その配信者の部屋にかかっているアンビエントな音楽も良くて、それと一緒に全部流れていったみたいにスッとした気分になった。

これって割りに合わない、損してるんじゃないか。
評価されていない、認められないんじゃないか。
愛されていない、大切にされていないんじゃないか。

そんな疑問でふと立ち止まると、そこで流れが止まってしまう感覚がある。

そんなことで立ち止まってどうする、進みたい方にどんどん行けよ。
どうでもいいだろ。

そんな声も聞こえて、そうだよね、と思う。

明らかに被害を受けていたり危険を感じているのにその声を無視して、大丈夫だと開き直るのとは全く違っていて、私の場合、気にしていることはさほど問題じゃないことだった。私が勝手に拗ねてるだけで。

そもそも認められたり見返りを求めるために始めたわけじゃなかったことが、どこかで不足感に転換して「もっとほしい」になることがある。そこには「頑張る」とか「一生懸命」といった感覚が関係してくる。頑張りたくなったとき、いったい何のために頑張りたいのか。誰かに褒めてもらうためか、お金がほしいときか、ただそれが面白くなっただけなのか。それが分かっていないと、目的がごちゃごちゃに混ざる。

執着や所有にまつわるこだわりは、それを動きの表現に変えると「立ち止まってる」ということになる。なんだか気になってそこで止まる。それが必要なこだわりで大事なときもあれば、止まる価値がないときもある。

フッと影が差したとき、気にせずそのまま駆け抜けていけば勝手に日向に出るし、そもそも動き続けていると影も光も勝手に変化してやってくるものだと分かる。影にいたいとき、いる必要があるときはそこにいてもいいし。影に何の問題もない。そう思うと、問題がなんで問題だったかもわからなくなる。

本当に取り組むべきことに取り組むために、どうでもいいところで立ち止まっていてはもったいないのだった。

 

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